本日2026年5月19日(火)
夢が実現します!!
鴨頭嘉人
武道館のステージに
立ちます!
関わってくれた全ての皆さん
本当にありがとうございます♪
今回は改めて
「なぜ武道館のステージを
目指すことになったのか」
をお伝えします。
<目次>
1.夢が実現する日♪
2.こんな日が来るとは思わなかった。
3.今日はもう喋れない!だから歌うよ!
本題に入る前に、お知らせです(≧∇≦)♪
【ビジネスオンラインサロン鴨Biz】
『鴨Biz』は毎月1日~5日の
5日間だけしか入会できない
オンラインサロンです!
順番待ちLINEに登録して、お待ちください♪
▼オンラインサロン【鴨Biz】
(※こちら→) https://kamogashira.com/kamobiz/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼夢が実現する日♪
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2026年5月19日(火)の記事です。
夢が実現する日です♪

関わってくれた全ての皆さん
本当にありがとうございました(≧∇≦)♪
とんでもない人の力を借りて
今日の夢につながっています♪
今日武道館に来られるラッキーな皆さん
楽しみましょうね(^o^)/
2時間半か3時間弱なんて
ほんの一瞬ですよ。
「花火が一発パーンって
上がるのをみんなで見よう」
というそんな一日になりますので
心の底からみんなと楽しもう
と僕も思っています♪
そもそもなぜこの
「日本武道館を目指す」
ということが
スタートしたのか
というところを、
今回はお話ししようと思います。
この話は
僕のアコースティックライブや
KAMOバンドライブでBLUEMOODや
六本木のBAUHAUSに来ていただいた方の
何人かは聴いたことがある
かもしれませんが
もともと僕は子どものとき
18歳、19歳のときに
音楽にハマっていました。
古く言うと、中学生のときからかな。
僕は体が弱くて勉強もできなくて
自分と3つ上のお兄さんを
ずっと比べて生きてきました。
お兄さんは
中学校も高校も大学も1年生から
野球部のレギュラーで、
高校のときには
甲子園ベスト4まで行って
国体で優勝して
本当にスーパースターでした。
勉強もできるし、
友達もいっぱいいるし
女の子にもモテるし
僕がもっていないものを
全部もっていると思っていました。
そして僕は
全部もっていない。
何にももっていない。

「生まれてこなければよかったのに」
と思っていました。
死にたいと思ったことは
ないんですが……
「生まれてくる必要は
なかったんじゃないかな」
「僕なんかいなくても
お兄ちゃんがいるから、
鴨頭家は大丈夫だし。
僕なんかいなくたって
今治西高の野球部は、
お兄ちゃんがいるから大丈夫だし」
こんな感じでした。
今考えると
視野の狭さがそういう思考を
生んでいたのはよく分かるんですが
当時10代のときは
未熟だし視野が狭いので
全くそういうふうに見られなくて
本当に自分なんか
生まれてくる
必要なかったん
じゃないかな
と思っていました。
それを表で表現することも怖い。
こんなことを言って
友達に嫌われたらどうしよう。
友達も作れない人間でしたから
そう思っていました。
お父さんとお母さんが
そんなことを思っていることを知ったら
二人とも嫌な思いをするだろうし。
いじめられっ子で
学校の友達もいないので
お父さんとお母さんに嫌われたら
この世界に僕の居場所はないな
と思っていました。
なので家では
はしゃいで
“明るい嘉人”
を演じていた。
でも本当の僕は暗くて
ネガティブで
「自分なんか
生まれてこなければよかった」
「必要なかったんだ」と思うような。
そんな少年時代を過ごしていました。
そんなスーパーメンヘラ期に
出会ったのが音楽でした。
「音楽って優しいな」
と思いました。

野球だったら
体が強くなきゃダメだし、
技術がないと認めてもらえないし
レギュラーでなければ価値がない。
こんなふうに
スポーツの世界はある意味
実力の世界で残酷ですよね。
でも音楽には
その基準がなかった。
音楽は……
「みんな聴いていいよ」って。
どちらかというと最初は
音楽を演奏する側ではなくて
音楽を聴きながら
その歌詞やメロディーに心を震わせて
何回も何回も泣いていました。
一人の部屋で布団をかぶって
もしくはヘッドホンで号泣しながら
歌を聴くというのに、ドハマりしていた。
そんな僕が歌詞を
書くようになりました。
言葉に対しては
やっぱり思いが強かったんでしょうね。
今までに大学ノートに書いた
歌の歌詞の数は
いくつくらいあったんだろうなぁ。
400か500はあったでしょうね。
下手すると1000近く歌詞を
書いたかもしれません。
あの大学ノートは
取っておけば良かったな。
今、読んだら笑いに
なっちゃうんだろうなと思うけど
その大学ノートは手元になくて
捨てちゃったんだと思います。
ものすごくたくさんの歌詞を書きました。
中学生のときには
フォークギターを買ってもらって
作曲もしました。

当時はテープレコーダーだったんですが
それを撮ってダビングして
学校の数人しかいなかったけど
友達に聴いてもらったりしていました。
高校生になってからは
ハードロックに出会って
ロックに目覚めた。
野球部の間は
さすがに音楽はできなかったんですけど
夏の大会に負けて半年くらいの間、
一般的には受験のシーズンに
僕は受験勉強なんかほとんどしないで
ずっと音楽をやっていました。
愛媛県今治市の仲間と一緒に
毎日のように
スタジオにいました。
スタジオといっても
スタジオ代がなかったので
野球ばっかりやっていて
お金を稼いでいなかったから
友達の家でした。
ドラムをやっていた友達の家が
化粧品を販売している実家だったので
大きいビルだったんです。
そこの一部屋を
僕たちがバンド部屋にして
部屋の内壁のところに
発泡スチロールみたいな
音を吸収する吸収剤を手作りで貼って
そこでバンドの練習をしていました。
そのうちに
「人前で演奏がしたい」となって
いつも僕たちバンドメンバーが
通っていた喫茶店。
今でも覚えているのは
“ブドウ屋さん”という名前の
喫茶店があって
そこのマスターに
「マスター
俺たちライブやりたいんだ。
でもライブハウスを
借りるお金がないから、
喫茶店の営業が終わったら
使わせてくれないか」
と交渉したら
マスターは仲良かったし
良い人だったんですね。
「お前たちいつも
音楽の話をしてたよな。
いいよ。使って」
と言ってくれて、
その喫茶店の営業時間後に
そこでライブを
やれるようになりました。
それが嬉しくて嬉しくて
「俺たちデビューだよ」
って♪

全然デビューでも
なんでもないんだけど(笑)
当時は今から40年前だから
バンドをやっている仲間なんか
ほとんどいなかったし、
愛媛県今治市も当時は
エレキギターを担いでいるだけで
「不良だ」と言われるくらい
音楽はまだまだ
浸透していなかった時期でした。
だから「ライブをやれる」
というだけでも
「デビューだ!」
と思っていました。
それで嬉しくなって
チケットを手書きで作った。
当時はまだプリンターもないし
コピー機もコンビニもない時代ですから
普通のA4の紙を定規で切って
チケットを手書きで作って
それを学校に持って行って
放課後や休み時間に友達にこっそり
「ライブ来てよ」
と言って渡していました。
いくらだったかもう忘れたな。
400円か500円だったと思います。
そうやってチケットを
買ってもらってやっていました。
そうしたら学校にバレて
先生から
「やめろ」
「こんなのも学校の許可がないとダメだし
学校は許可してない」
「すぐにやめないと停学処分にするぞ」
と言われて……
「夢を叶えるのって
超むずいじゃん」
と思ったのをよく覚えています。

結果的に僕たちは
ライブをこっそりやっていました。
「停学にするならしやがれ」
みたいな感じで、まあ不良ですよ。
不良というか
逃げ道が
そこしかなかった。
音楽しかなかった。
この逃げ道をなくしたら
本当に何をやっていいか分からなかった。
そんな気持ちだったので
音楽にどんどんのめり込んでいきました。
そして愛媛県今治市で
ライブを何回かやったり、
他のバンドのライブを
途中から乗っ取って演奏を始めたり。
今考えると
結構悪いことしていたんですけど
そんなこんなで愛媛県今治市で
ちょっと評判になった。
「異様にコール&レスポンスが多い
バンドで、異様にMCが長いバンド」
最初はパンクバンドと
間違えられていたんですけどね。
僕の声が野球で潰れて
ダミ声だったから
「すごいパンクバンドがある」
みたいな感じで言われていました。
そして愛媛県の県庁所在地
松山市でロックのフェスがあるから
出ないかと声をかけていただいて
僕たちは舞い上がるわけです。
「いよいよデビューだ!」
「松山市は今治市と比べたら
大きな町だから、
音楽事務所の人が来てるだろう」
「スカウトされるに違いない」
今考えると絶対違うんだけど
本当に情報がなかった。
インターネットもない時代でしたからね。
そしてそのフェスに出ることになって
そこで僕は
挫折を味わうわけです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼こんな日が来るとは思わなかった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
おそらく10組くらいのバンドが出演する
フェスだったんですが
僕らの出演は後ろから
2番目くらいだったかな。
僕以外のバンドのボーカルが
みんな歌が上手くて
「俺下手じゃん」
「俺こんなに下手なんだ」
とそこで初めて認識しました。
ライブをやっているときは
アドレナリンが出ているから
気がつかないし
当時は今みたいに
スマートフォンもないし、
ビデオカメラすら
まだ普及していなかったから
自分の歌を聴く機会がなかった。
自分の歌を聴く機会は
リハーサルとライブの本番で、
自分がマイクを通して
歌っている瞬間なので
音は割れているし
興奮しているから
歌えているように聞こえる。
でもそのフェスは
すごくいい音響設備だったので
あまりにも
自分が歌えていない
ということにリハーサルで気づいた。

そのフェスに出るのも怖くなったけど
でもその日出演は
キャンセルしなかったから
歌ったんでしょうね。
もう覚えていません。
ひたすらリハーサルで
怖くなったことと、
地元の今治市に電車で帰ってから
バンドメンバーに……
「俺はもう諦める」
高校卒業したら
みんなで東京に行って
オーディションを受けて、
メジャーレーベルと契約して
ビッグになろうと
半年間ずっと毎晩のように
語っていたのは僕です。
僕がバンドメンバーを集めて
僕が夢を語って、
僕がバンドメンバーみんなに
「東京に行こう」と言って
バンドメンバーも就職活動や
受験を諦めて
一緒に東京に行ってくれる
という約束をしていたけど、
僕自身が僕の夢を諦めて
仲間を裏切ることになった。
そのことしか覚えていません。
それから僕は音楽を聞くことはあった。
音楽は苦しいとき悲しいときに
心を癒してくれるから、
聞くのは大好きだったけど
人前で歌うことは
嫌いになった。
カラオケもしょうがなく
行くことはあっても
自分からカラオケに行こう
なんてことはないし
今の若い子みたいに
ヒトカラで練習するなんて
思いもしなかった。
できるだけ歌わない人生を
選ぼうと思ってきました。
大好きだった音楽
唯一の逃げ場だった
音楽からも僕は逃げた。

そんな歌から逃げ回っていた鴨頭嘉人が
なぜ日本武道館で
今日歌うことになるのか。
それはコロナ禍の影響がすごく大きくて
あのときに……
「なんでこんなに大人たちが
他人の人生に口を挟むんだ」
芸能人の不倫を叩きまくったり
政治家が裏で悪いことを
しているんだろうと騒いだり
お金持ちや成功者を
どんどん叩くように
なっているのを見ていました。
なんなら僕自身が
SNSやYouTubeで情報を発信すると……
「うるさい」
「余計なこと言うな」
「そんな人ばかりじゃないんだ」
「お前は間違ってる」
「喋るなハゲ」
こんなことをめちゃくちゃ書かれた。
それでも世の中が少しでも
明るくなるような良い情報を
撒き散らそうと思って
自分の時間と会社の口座に入った
受講生からのお金を全部使って
1年間で3億6000万円の広告費を使った。
YouTuber史上最大金額を使って
良い情報を撒き散らす
という活動をやっていた。
そしてその翌年
YouTubeのチャンネル登録者数が
102万人を超えたタイミングで
世界中がコロナ禍になって
講演会もできなくなって、
うちの会社は
売上がゼロになって
倒産しそうになります。
そんなタイミングでも
僕はSNSでずっと発信していて
そのSNSを見ていると
大人がとにかく夢に向かって
挑戦している人や成功した人を
叩きまくっていた。
「みんな絶望しているんだな」
「今必要なのは、挑戦する気持ち!
希望なんだな!」
そう思いました。
だから僕はそのときから
『Challenge Like A Baby
赤ちゃんのように挑戦しろ』
そんな大人が一人でも
増えるように活動しようと
心に決めてスタートしたのが……
『Challenge Like
A Baby
あの頃諦めた夢、
今から叶えろ』
このメッセージを伝えようと思いました。

でも僕は、当時から
2億回以上の再生回数がある
YouTubeのチャンネルを運営していて
全国で300講演もやっていました。
そんな僕が思ったのは……
「人は言葉だけでは変わらない」
「説得しようとしても変わらない」
「だから、自分自身がまずやろう」
「誰よりもあの頃諦めた夢
今から叶える!!」
「『Challenge Like A Baby』の
実践者になるんだ」
と決めて一番怖いこと、
諦めた夢、人前で歌う
ロックシンガーになる
という夢を実現すると決めたのが
コロナ禍でした。
そのことを僕が本当に敬愛する
大尊敬するスーパースター
ダイアモンド☆ユカイさんに
相談したときに
「じゃあ鴨さんの曲を俺が作るよ」
と言ってくれたところから
本格的に活動がスタートします。
そんな中でも
僕が一番怖かったことは……
下手な歌をみんなに
聞かせるのが怖い。
この恐怖を乗り越えることだった。
そのときに出会った
ボイストレーナーがKozyさんです。

Kozyさんがいなかったら
豊洲PITの
デビューライブ
なんかできなかった。
「2年後武道館」なんて
宣言はできなかった。
この夢に向かって、
一緒に歩いてくれるバンドメンバーを
集めることもできなかった。
そしてKozyさんがいなかったら
日本武道館のステージに
僕は一人では立てなかったと思います。
そんなKozyさんと
一緒に今日
武道館のステージに
立ちます!
豊洲PITのデビューライブをしたときも
この日本武道館へのチャレンジしている間も
うちの会社は毎月潰れそうでした。
3億4000万円の詐欺にあって
毎月支払いが2000万円足らない、
3000万円足らない
今月は4000万円足らない。
そんな月末を繰り返し繰り返し
毎月乗り越えながら
たくさんの人に助けてもらいました。
それこそ今回のボラスタリーダーの
山本隆司(やまもと りゅうじ)さんや
サブリーダーのもりつぐ先生こと
森次美尊(もりつぐ よしたか)さんや
ギンギラギンガールズを
僕に会わせてくれた
能登清文(のと きよふみ)さん。
本当にたくさんの人に
助けてもらった。
顧問税理士の
河野浩人(かわの ひろと)さんにも
4000万円という個人資産を入れてもらって
うちの会社を救ってもらった。
創業期からのメンバーの
ヒロキングにもずっと支えてもらった。
アンチYouTuberに
めちゃくちゃに叩かれて
当時副店長だった社員にも裏切られて
そして詐欺にもあった。
僕たちの震源地だった
YAKINIKUMAFIA IKEBUKUROも
17人採用した社員の中で、
最後まで残ってくれたのは
当時の店長、
堺本卓哉(さかいもと たくや)と
あさみとボニカの3人だけだった。
でも、いてくれた。
ずっと一緒にいてくれた。
そのおかげで今日は
日本武道館のステージに立てます。

絶対に一人じゃ行けなかった場所に
今日行きます。
今日も3300人のお客様が
日本武道館に来てくれます。
ギンギラギンガールズもボラスタも
みんな一緒に夢を叶える日が来ました。
あまり言わないけど
今日だけは言わせてください。
「こんな日が来る
とは思わなかった」
友達も作れなくて、体も弱くて
生まれてこなくてよかったのに
と思っていた。
その僕が、まさかあの逃げ回った音楽で
日本武道館のステージに
立てる日が来るなんて。
あの頃の僕に言いたい。
「人生は一瞬一瞬
いろんな感情にはなるけど
まだ生きている限り
結論なんか出てない。
周りからどんなにお前には
無理だって言われようが、
どんなに邪魔されようが
信用とお金を奪われようが
裏切られようが、
諦めなければ
まだ決着はついてない」
今日僕は武道館のステージで
みんなにこのことを伝えようと思います。
「人生はこれからだ」
「どんなに辛いことがあっても
困難があっても
希望だけは絶対に忘れちゃダメだ」
そしてこの言葉を伝えるために
武道館のステージに立ちます。
『Challenge Like
A Baby
It’s your turn Next.
次は君の番だ』
ありがとう。
みんな一緒に夢の舞台で
会いましょう♪

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼今日はもう喋れない!だから歌うよ!
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
今日の記事はダメだな!
やっぱり込み上げてきますね。
今回の武道館の準備
全部の確認を僕がしていたので
1500件以上の決済をやってきて
極めて冷静にやれたな
と思っていたんですけど。
最後にこうみんなにメッセージを
せっかくなので
武道館の当日には伝えようと思って
今日は学びになるような
記事じゃなくて
ただ自分の気持ちを
この記事を読んで
くださっている人に伝えよう
と思ったら込み上げてきちゃいましたね。
でも今日はまあいいか♪
今日だけは講演家
じゃなくていいよね。
一人の人間でいいよね。
弱い鴨頭嘉人でも
いいよね。
本当に丸裸な鴨頭嘉人で
日本武道館に立とうと思います。
もうダメだ!
今日はもう喋れない。
今日歌うよ!!
日本武道館で!

まあ本番になったら
結局喋ると思うけどね(笑)
とにかく万感の思いをもって
日本のアーティストの頂点である
あの日本武道館のステージに立とう
と思います!
昨日も言いましたが
一人じゃ立てない場所に
僕を立たせてくれた皆さん
本当にありがとうございます♪
今日は鴨頭嘉人史上最高の
パフォーマンスを見せつけますので
どうか一緒に武道館を
味わってください!!
日本武道館で遊ぼう
(≧∇≦)♪

ということで
今日という一日が皆さんにとって
そして鴨頭嘉人にとって
最高な一日になりますように……
せーのっ!
いいねー♪(^o^)/
P.S.













